若き日の出会い:小林秀雄
小林秀雄さんは画学生の若描きの油絵を見て、デッサンをしていない人の絵は弱いと厳しく批評され、基礎が大切なことと、文学ではない絵画の心について語られた。
才能がある。しかしいくら才能があってももっと努力しなければ、と言われた。
おせじやへつらいが出来ず、真実をもって相手に対する、峻厳な剣士の精神の人であった。
二十四歳の時、私は小林秀雄さんに会いに行って油絵を見せた。
小林さんは何かを感動された様子だった。
「デッサン(基礎)をしていない人の絵は弱い。」と厳しく批評された。
「この強烈な色。」「才能はある。」とハッキリした声でいわれた。
二年後にデッサンを持って再び会いに行くと、小林さんは見終わってから「まだだめだ」と力のある声でいわれた。
「いくら才能があってももっと努力しなければ」「これくらいのことは早くやりとげんことには」といわれた。
小林さんはウソがいえない人、おせじやへつらいが出来ない人だったと私は思っている。
「デッサン(基礎)をすること。勤勉努力すること。」
私は今日まで自分の若き日の、小林さんの教訓を等閑にしなかった。
小林さんは真実を探求し、真実を信じ、絶対者を信じる謙遜な人だった。理不尽なことは断じて許さぬ剣士の気骨の人であった。
遠藤剛熈
この文章は1992年の春に書いたものである
もう三十年以上前になるが、私の二十四歳の頃、芸術の師も友もなく、東京都三鷹市牟礼の井の頭公園近くの下宿のアトリエで孤独な生活をしていた。
画壇の公募展に出品する気にはなれなかった。もっと真実な生き方と芸術の道を求めていた。
小林秀雄さんの文章を私は愛読していた。「モオツアルト」「バッハ」「ゴッホの手紙」「ランボウ」「ドストエフスキー」「西行」「実朝」「無情という事」「雪舟」「私の人生観」「近代絵画」…など小林秀雄さんの文章は私にはむずかしいとは思えず、私なりによく理解できたと思っている。氏の文章の根底にある思想の琴線に共感したからである。
写真で見る小林秀雄さんの顔は、私に似ていると思った。私の父にもよく似ていた。父の話では伯父にも大層似ているという。他人の空似とは思えぬ親しさを感じていた。
テレビかラジオの放送で小林秀雄さんの声を聞いた。氏は「世にうずもれた才能を見出すために自分はいるのだ」という意味のことを真面目に言っておられた。
小林秀雄さんなら私の絵を認め、有益で適切な批評をするだろうと、プライドのある生意気な画学生の私は思っていた。
小林秀雄さんに会って絵を見せなければならないということが、当時の私の積極的な行動となって、一九五九年に三鷹から鎌倉へと電車をのりついで小林さんに会いに行った。
当時の小林さんは鎌倉の雪の下の高台に住んでおられた。人にたずねて岡まで坂を登り玄関で声をかけると、中から夫人が出て来られた。
「絵を持って来たので見て下さい」というと、
「主人は原稿締め切り前で仕事中ですから会えません」といわれた。
「京都からきたので」(実は三鷹から来た)というと、夫人は仕方なく小林さんにとりつぎに家の奥へ入っていかれた。しばらくすると、小林さんがせかせかした不機嫌な様子で出て来られた。
「人の都合も考えないで」とおこっておられた。
「絵を見せるなら絵の先生に見せればよいではないか、私は文学者だ」といわれる。
「現存の尊敬する画家はいません。小林先生の文章を読み、教えられてきました。その感謝の心から信頼と尊敬をもって絵をもって会いに来ました」と答えると、小林さんは「そうか」とうなずかれた。
「今の絵がつまらんのは私ら素人が一番よくわかっている」「今の絵描きはアマチュアだ 」「私は努力して文章のプロになった」
「ものをよく見ないで絵の具をたり、たりしている馬鹿の一人が絵を持ってきたのではないだろうな」
「とにかく絵をみせるように」といわれた。
持ってきた人物と静物の十号と二十号の油絵四枚(だったと思う)を並べると、小林さんは私の絵を見て何かを感動された様子だった。
驚いた様に声高に、
「君はどこで絵を描いているの」とたずねられた。
「京都に生まれて今は東京で描いてます」と答えると、氏ははっきりした言葉でうなずかれた。
「何年絵を描いているの」
「もうそうとう長く描いてます」
「何だって」
「十歳ぐらいの子供の頃から描いていますから」
小林さんはそこで再びうなずかれた。
「どの絵が一番よく描いたと思うのか」とたずねられる。
「この絵だと思います」といって、十号の女の顔の油絵を示すと、小林さんはうなずかれた。
それから次々と情容赦ない厳しい批評の言葉が出る。
「一日何時間デッサンをしているのか」といわれ、
「デッサンをしていないね」「デッサンをしていない人の絵は弱いね」「腕が動かないね 」…。
小林さんはジョットやセザンヌやゴッホのことを話された。ジョットの円、セザンヌの鉛筆の線、ゴッホのタッチについて。ジョットは円を宙で描いても寸分たがわず結ばったこと、セザンヌの油絵のカンバスに素早く描かれた鉛筆の線の魅力のこと、ゴッホの食い入るように描かれたタッチのこと。
「ゴッホは物に即してタッチをつけているが、君の絵は感情だけで描いている」といわれた。主にある花の静物画についての批評であるらしい。
小林さんは私の前で両手をひろげて見せて、
「うれしいとか、かなしいとか、そういう感情は君も私もいっぱい持っているのだ。それをそのまま表すのは文学だ。絵はその感情をこえて、一本の線を引く、そこに心が生じるのだ」といわれる。
「君がこのままぐいぐい描き進んでいったら、後で必ず行きづまる」と声を大きくして断定的に言われた。
私の顔をじっと見て、熱をこめて、
「この強烈な色で描いている気持ちはよくわかるがね」といわれる。
しばらくじっと絵を見て、「才能はある」ときっぱりといわれる。
それからしばらくして、
「今、自分が言えることはこれだけだ」といわれた。
小林さんの仕事中に突然訪れたのだから、今日はこれまでにしようと思って、黙って絵を片づけはじめた。
私が絵を紐で括ろうとするのを小林さんは手伝ってくださった。
厳しい人だったが、やさしい人であることが感じとられた。
小林さんの家を出た。帰りの道や駅や電車の中で何を考えたのかおぼえていない。
私は、人の苦労も知りもせず、言いたい事を厳しく言う批評家なんて人格が無いとも思った。しかし、ここまで決然と私の絵を批評した人はこれまでいなかった。
三鷹の下宿のアトリエへ帰った。
小林秀雄さんの言葉を受け入れてすぐにデッサンを描き始めた。自分の身近なもの、下宿の近くの畑・樹木、美術学校の友人達などの顔・人体…。京都へ帰省したときは、郊外の樹木や、岩や、人の顔などを毎日の課題としてデッサンをした。
油絵は花や人物や風景を二十号ぐらいで描いた。
夜は中央線の吉祥寺などでサンドイッチマンをして昼間は絵を描いた。
デッサンは金がかからなかった。ひろい東京で独りで勉強した。やりきれなく淋しいこともあった。
二年ほどが過ぎた。小林秀雄さんに手紙を書いたが、出さなかった。
再び、連絡もせず直接鎌倉の小林さんに会いに行った。
小林さんは玄関に出てきて、外国語で何やらわからないが、おこったように大声でしゃべりながら私の前に立って私を見すえた。
何事かを問答したが、今はよく覚えていない。私は人生如何に生くべきかを真剣に求めて絵を描いてきた、というようなことをいった。
小林さんは「それは大切なことだが、本当の仕事をするには、そういうことさえ乗り越えてしまわなければ」という意味の言葉を話された。
今度は原稿締め切り前ではなかったようだった。
応接間に通された。部屋には縦長の大きな水墨画が一枚かけてあった。その絵は気魄がこもっていた。
私は前に持って来た油絵のことを話した。小林さんはそのことを想い出された様子で、「以前に油絵を持って来た青年がいたなぁ」といわれた。
私は持ってきた自分が撮ったデッサンの小さな写真集を見せた。小林さんはそれらを見ておられた。あるデッサンの写真には、眼を吸い付けるように近づけて見ておられた。全部見終わってから、「まだだめだ」といわれた。私は独りで精一杯勉強したと思ったが、小林さんにはまだ通じなかったようだった。
ゴッホが描いたようなモチーフのデッサンの写真を持っていったので、小林さんから、
「君はゴッホが好きなの」と聞かれた。
私は「絵としてはセザンヌの方が好きです」と答えた。
いろいろ話をされたことの皆と順序は思い出せない。
「いくら才能があっても、もっと努力しなければ」といわれた。
小林さんは「モオツアルト」の文中に「天才とは努力し得る才である」というゲーテの言葉について次のように述べておられる。「努力は凡才もする。しかし努力を要せず成功する場合には努力はしまい。天才は努力を発明する。凡才が容易と見る処に、天才は難問を見る。努力は計算ではない、五里霧中のものでなければならぬ。困難や障碍の発明による自己改革の長い道である」と。
その言葉を聞いた私は後で思った。私に必要なのは天才たる者の努力でなければならないと。
私は小林さんに、「これからも長く絵を見て下さい」といった。小林さんは、「見てもよい」といわれた。
小林さんは当時五十数歳だったと思うが、
「あと何年生きられるか、どれだけ仕事が出来るか」と自身のことを真面目な声でいわれた。
この小林さんの言葉から、本物の文学の仕事は本物の絵の仕事と同様に、その道一本に生活をかけ、生涯をかけ、命をかけたものであることを、私は直接に心に感じ取った。
私は小林さんの「近代絵画」を読んだことを話した。
ピカソの章に関して、「小林先生はピカソを誉めているのか、腐しているのか、どうなのかはっきりしないのですが、どうしてあのような文章を書いたのですか」と私はたずねた。小林さんは、
「それはセザンヌの方が人格者で絵も立派だよ」と答えられた。
「批評家として書いたのだ 」
「批評家はいろんなことを言うがね」とつけたされた。
それからモオツアルトの独得な音の感覚のことを話したように思い出す。
私は油絵の色彩感覚の透明なマチエールのことを話した。小林さんは、
「芸術の最後に出てくるものはサンチマンだ」といわれた。
私は腕が痛くなるほど制作してきたといった。
小林さんは脳から腕への神経組織のこと、演奏家のこと、スポーツのこと(野球の長嶋茂雄のこと…)などいろいろなことを話された。
私の絵について、 「これくらいのことはもっと早くやりとげんことには」といわれた。
出された紅茶のおいしかったこと、その器が美しく感じがよかったことなど今も覚えている。応接室の雰囲気はなごやかで明るかった。
高台なので眺めがよかった。
二人きりだった。
小林さんはなかなか帰れとはいわれなかった。
私の方からいとま乞いをして氏の家を辞した。
その後の私の現実生活は、不安定だった。東京生活は間もなく終わろうとしていた。帰りの荷物の運賃にも事欠き、絵や道具のいくつかを下宿へ置いて、京都へ帰ってきた。
小林秀雄さんとの出会いを、真に受けて聞いてくれる人は、誰もいなかった。
京都での生活を打開しなければならなかった。
再び小林さんに絵を持って会いにいくことは出来なかった。
それから二十年が過ぎ去った。鎌倉へ小林さんに会いに行った。青年時代と変わらぬ純粋な心で。
雪の下の高台の家は人手に渡っていた。初老の男の人に小林さんの家をたずねたら八幡様の近くであることを教えてくれた。八幡様の池のほとりをよく散歩しておられるとのことだった。
留守番の女の人が、「先生は長野へ講演のために不在です」と私に告げた。その後間もなく小林さんは病いにかかり、不帰の人となられた。
小林さんは短命の天才達に傾倒しておられた。実朝、モオツアルト、ボードレール、ランボオ、ゴッホなど。
私はそこに共感した。長生きしようとは思わずに、彼等のあとに続くべく太く強くその日その時に全てを燃焼した。
そんな私も五十歳を越えてしまった。
私の青年時代以後、長く、小林さんに絵をみせて、交際が続いていたとしても、
小林さんは「まだダメだ」と私の絵を厳しく批評されていたことだろう。
しかし、私も信念と情熱を通して、お互いを認め合い信頼できる関係が生まれていたことと思う。
めずらしく気骨のある立派な先輩との交際を断ったことは残念である。
いろいろなことを教えられたであろう機会を、私の方から失ったが、小林さんとの出会いは、今も私の心の中に生きつづけている。
最初から高貴な人間同志の、個人対個人の、純粋な真実な出会いであったこと、小林さんへの信頼と敬愛であったことを精神の誇りに思っている。
小林さんは高慢だったか、辛辣だったか。そういう小林さんを私は知らない。誰にもおせじやへつらいが出来ない人だったと思う。そこに小林さんの真実味があった。
「本物」を求めつづけた小林さん。音楽と絵画をこよなく愛した小林さんは、モオツアルトの音楽とともに埋葬された。
今は絶対者(神・佛)のいるところで安らいでおられることだろう。
私は小林秀雄先生の精神に応えるべく、気骨をもって真剣に絵画に努力精進をしなければならないと思っている。
「 写生(描写)などしてはならぬ、魂のことを描け。」小林秀雄(「レイテ戦記」を書く大岡昇平への言葉)
1992年春
小林秀雄 批評の神様
小林 秀雄
1902年(明治35年)4月11日 — 1983年(昭和58年)3月1日
文芸評論家。
日本の近代批評の確立者であり、西田幾多郎と並んで戦前の日本の知性を代表する巨人であり、戦後も保守文化人の代表者であった。いわゆるフランス象徴派の詩人、ドストエフスキー、志賀直哉らの文学、ベルクソンやアランの思想に大きな影響を受ける。国文学にも深い造詣と鑑識眼を持っていた。
1925年(大正14年)4月 – 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。
1928年(昭和3年)3月 – 卒業。
1951年(昭和26年)3月 – 第一次『小林秀雄全集』により芸術院賞受賞。
1953年(昭和28年)1月 – 『ゴッホの手紙』により読売文学賞受賞。
1958年(昭和33年)12月 – 『近代絵画』により野間文芸賞受賞。
1959年(昭和34年)12月 – 芸術院会員となる。
1963年(昭和38年)11月 – 文化功労者として顕彰された。
1967年(昭和42年)11月 – 文化勲章受章。
1978年(昭和53年)6月 – 『本居宣長』により日本文学大賞受賞。
小林秀雄の詳細はウィキペディア等をご参照ください。