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剛熈を語る:加藤周一

…息をのむような緊張感がある独創的な新鮮な世界のドラマ(京都の風景)

…ホレイショの哲学も夢みなかった不思議のように存在する(大樹)

…身体と化した理想、佛教の用語を借りれば地天の姿、ファウストの比喩に従えば永遠に女性的なるものの形がある(日本の女)

 

画家 遠藤剛熈について

遠藤剛熈さんは京都の画家である。洛中に仕事場があり、それが同時に自作を展示した個人美術館にもなっている。その中へ初めて入ったとき、私は周囲の街から断絶して別天地がそこにあると感じた。その街が日本で孤立し、独特の世界を成り立たせていたように。

外には神社佛閣とその庭があり、まだ破壊しつくされていない町家や京言葉が残っていて、「日本画」および「洋画」の画壇もある。「日本画」は伝統に従い盛装した舞妓を描き、「洋画」は10年毎に変る流行を追って日常的環境の観察から離れる。そのどちらからも遠く、内には一人の芸術家の生涯の仕事の集積があった。芸術的創作は冒険であるから、その内部の空間には緊迫した空気がある。絶えず自分自身を否定し乗り越えていこうとする意志がある。

自分自身を乗り越え、世界の新しい「イメージ」へ向って踏み出すのは冒険である。その先に何があるかわからないからだ。一度成功した商業主義的な画家は、必ずくり返す。それは安全な道である。芸術家はくり返さず、冒険に挑む。たとえばパウル・クレー。その仕事は多様にみえて、強い一貫性を保つ。またたとえばモランディ。机上にならべたガラスびんの画面の単調なくり返しのようで、実はそこにおどろくべき多様性がある。

遠藤さんの油絵は、ほとんどすべて京都の自然を描いて、神社佛閣を描かない。散歩の途中でたまたま出会った木立ちや、林を透して見える建物の屋根や、上水道のアーチや坂道の階段を強い線で描く。樹木は根元から空へ向い、四方へ伸びる枝が空を蔽う。その複雑な曲線の交叉は画面の空間の全体を満たし、建物の軒や階段があたえる直線と拮抗する。曲線と直線、下から上へ向う樹の幹の方向性と軒や階段や地平の水平線。その緊張とつり合いが静かな光のなかに沈んで、動かない。これが遠藤さんの風景画であり、誰も見つめたことのない景色である。誰も描かなかった対象であり、独創的で新鮮な世界である。

しかし一見同じように見える風景画を部屋から部屋へ、およそ制作年代順に辿ってゆくと、─―「およそ」というのは年月を隔てて旧作に手を加えたものもあるからだ─―、一作毎に微妙なちがいがあり、実に豊かな多様性が樹木や林や建物の組み合わせの中にある。その多様性は分散せず、時と共に一定の方向へ向って集中し、発展する。発展はゆるやかで、一作が次の作を生むかの如く、飛躍しない。しかし確実に、色を整理し、線を活かし、形を基本的な要素に絞りながら、断えず前進しつづける。一つの画面の後にどういう画面があらわれるか。─―その期待と意外性、持続と変化は、ほとんど息をのむような劇的感動を生みだす。

劇的緊張は、画家の人生を一貫するのではなく、画家の仕事を一貫するものだ。生涯は、劇的波瀾に富むかもしれないし、比較的平穏かもしれない。たとえ波瀾を含むとしても、そのことが仕事場で演じられる精神の、あるいはむしろ感覚の、劇とどう関係するのかは、わからない。確かなものは眼前に展開する芸術作品の系列であり、その背景に見えている芸術家の眼と手の活動であり、その活動の歴史である。劇的緊張はその歴史の裡にある。

風景画の発展はどこへ行き着いたか。風景は林に集中し、林は一本の大木に収斂し、遂に大樹の幹が画面の中央大部分を占めるようになる。下には地の中から伸びてきた根があり、上には四方へ向って空を蔽う枝と繁みがある。幹はその天と地の間に、あらゆる生命のように、起ち上がった人間のからだのように、ホレイショの哲学も夢みなかった不思議のように、存在する。色彩はそこへ来るまでに整理され尽していて、黒い強い線だけが太い幹の輪郭を縁取り、細い黒の線の網がその量感と木肌の触感を示す。秋の木洩れ陽は、その幹の表面の微妙な起伏に戯れるだろう。

他方風景画の系列に平行して、早い時期から始まった裸体画がある。後者は70年代に裸婦の連作となり、20年後その旧作に筆を加え、あらためて最近(97年)制作された作品と併せて現在の「日本の女」シリーズが完成する。いずれも等身大の若い女の裸像。鉛筆と墨の太く強い線と細かい縦横の描線を駆使して、白い紙面に溢れるほど大きく描き、背景はない。女は両脚をそろえて立つか、わずかに左右を踏み代えている。脚は腰から眞直に伸ばして膝を折らない。両腕の位置は胸の前で合掌したり、頭上に組んだり、左右に大きく伸ばしたりしている。首すじは眞直、背すじも眞直、そういう姿勢の女を見る視角は、眞正面、背面、時として斜め正面や側面である。

目立つ特徴は二つある。第一に、眼の表情。夢みるような、何かの思いに耽るような、断乎として目標を注視するような、静かに祈るような、怒りに燃えるような。しかし決して弱々しく、怯えてはいない。また決して狡猾でも、卑しくもない。第二に、身体の表情。豊満で、堂々として、それ自身を主張する身体。殊に張りきった太い腿から足の先まで、筋肉質の下肢は、しっかりと大地を踏まえて立つ。そこから溢れ出る生命力は、周りのあらゆるものを圧倒し、吸収し、消し去るだろう。これはもはや写実ではない。大地につながる生命の根源の象徴とでも言うべきか。20年前には裸婦があった。20年後には写実を通してその先にあるもの、身体と化した理想、佛教の用語を借りれば「地天」の姿、「ファウスト」の比喩に従えば、「永遠に女性的なるもの」の形がある。それが「日本の女」連作である。

ここでは風景画と裸婦像が、同じ到達点で出会う。画面一ぱいの大樹の幹は裸婦のたくましい腿のように見え、逆に女の腿はゆるぎない樹の幹のように見える。樹の根は大地に張り、女の裸の足は土を踏みしめる。幹は枝と繁みの多様性を生みだし、女の身体は生きとし生けるものの千変万化を実現する。生命の多様性とその根源の統一性、それを支えるのは、土であり、大地であり、「自然」である。そのことを芸術家は早くから予感していたにちがいない。若い画学生であった頃に描いた「武蔵野の土」はそのことを証言してあまりある。

その画面はこの土が何を生みだすのか、と問いかけてやまなかった。遠藤剛熈はその答えを見出すためにその後の生涯をかけたのである。問いは常に一つ。しかし答えはそれぞれの時期にそれぞれの答えがあった。そして今多くの答えが一点に向う集中の時が来たように見える(convergence)。明日はその集中がまたさまざまの方向へ豊かに展開されるにちがいない(divergence)。芸術家の現在は、常に到達点であり、常に出発点である。

 

『画家 遠藤剛熈』加藤周一 文、遠藤剛熈 絵 共著 かもがわ出版(2002年11月25日発行)より。

 
 

2001年4月28日 遠藤剛熈美術館にて撮影 加藤周一(左)、遠藤剛熈(右)

 
 

加藤周一

 

加藤周一 略歴

1919年、東京生まれ、国際的文化、芸術、時事問題評論家・作家。
旧制一高から東京大学医学部在学中を通して、福永武彦、中村真一郎らと交遊し、マチネ・ポエテックを結成、「1946文学的考察」で文壇に登場する。

1951年、フランス政府半給費留学生として渡仏し、ヨーロッパ文化に親しむ、55年に帰国。
医師をしながら文学活動に従事する。

58年、第2回アジア・アフリカ作家会議参加を機に医業を止めて文筆業に専念。
カナダ、ブリティッシュ・コロンビア大学教授。アメリカ、イェール大学教授。ベルリン自由大学東アジア研究所日本科主任教授に就任。日本文学などを講義する。

76年、上智大学教授となって以降も、スイス、ジュネーヴ大学、イギリス、ケンブリッジ大の客員教授を務める。

88年、東京都立中央図書館長就任する。

94年に朝日賞。2000年にはフランス政府から、レジオン・ドヌール勲章を贈られる。現代フランス、エッセー賞の選考委員も務める。

88年から立命館大国際関係学部の客員教授を務め、92年にオープンした立命館大学国際平和ミュージアムの初代館長に就任する。

80年『日本文学史序説』で第7回大仏次郎賞。同書は英語、フランス語、イタリア語、中国語、韓国語など七ヶ国語に訳される。
評論『政治と文学』『抵抗の文学』『現代ヨーロッパの精神』『芸術論集』『雑種文化』、創作『ある晴れた日に』、自伝『羊の歌』ほか著作は多数。
幅広い知見を生かして平凡社『大百科事典』の編集長も務める。

80年から朝日新聞文化面に『山中人聞話』84年から『夕陽妄語』を書き続け、多くのファンをもち、2008年まで24年間連載する。
文化、芸術だけにとどまらず、常にリベラルな立場から核問題や安保問題などの現実問題にも積極的に発言し続ける。
被爆直後の広島を、日米共同の「原子爆弾影響医学調査団」の一員として訪れた経験もあり、軍国主義復活の危険性と民主主義の徹底を訴える。

60年代はベトナム戦争に反対、80年代は原水爆禁止世界大会に出席したり、防衛費GNP1%枠突破を批判。90年代の政界再編成を戦前の「『翼賛議会』に限りなく近づく」と問題視する。
晩年も、教育基本法改正に反対したり、2004年には大江健三郎らと「九条の会」を設立「武力によらない平和外交の方がはるかに現実的で経済的」などと主張。戦後民主主義を代表する知識人として、最期まで活躍する。

2008年12月89歳で逝去。

 

加藤周一先生に関する詳細は、ウィキペディア等をご参照ください。