画家紹介
自然を信じ、尊び、愛し、自然に従い、学び、共生の真実を問い続ける創作活動
遠藤剛熈は六十年間、永遠な尊厳な新鮮な自然に感動し驚嘆し、畏敬の念で接して来た。自然に直接に対峙し、存在を凝視し、一筆に精神を込めて制作した。
遠藤剛熈は、宇宙自然の絶対・純粋・永遠なる真実と生命と慈悲・愛=法・神(佛法・神法)を信仰し修行した。京都の歴史的風土の中で制作し、精神伝統から学び、重厚で深遠な美を探究した。そうして、自然と人間の精神の両方の内面の、芸術的宇宙の創造に向って、更なる精進を続けている。
門出と模倣の時代
京都市にて生まれる。(釈迦佛陀涅槃の2月15日)
鴨川と御所を遊び場として幼少年時代を過ごす。
キリスト教会と幼稚園で神を愛する心を育くまれる。
絵を描くことと運動(スポーツ)をすることを好む。
12歳から水彩画を始める。
15歳から油絵を始め、風景と人物と静物を描く。
18歳から10年間東京に住む。古代ギリシャ、ローマと近世イタリアルネッサンスの彫刻像(石膏)、裸体、肖像、花、武蔵野の風景(土)、樹木等を描く。
自己の道の探究に就いた時代
京都へ帰り、京都の風景制作に取り組む。ライフワークになる。
蹴上よりの展望と下鴨神社の糺の森を描く。
30歳前から60歳過まで東山山麓の南禅寺の禅(佛教)の環境の中で風景を制作する。
修行し、苦行する。孤独に沈潜する。自己の絵画の表現の形を発見し確立するまで、五里霧中の努力をする。菩提心を起す。
以後現在まで新たな探究の時代
50歳頃から洛北の八瀬、植物園、賀茂川、洛西の嵯峨野、嵐山、桂川を描き始める。
65歳頃から京都の周辺の北山と丹波の風景を描き始める。
山、川、岩、庭と池を描く。
20代から肖像と裸体を描いているが、
30代以後も肖像と裸体を描く。
40歳頃から等身大の裸婦像を描き始める。
50歳頃から大地に立つ裸婦像(神女、佛女)の制作により力を入れるようになる。
20代から樹を描いているが、60歳頃から大地に立つ大樹(神樹、菩提樹)の制作を始める。
70歳頃からより本格的に取り組む。
2000年秋、遠藤剛熈美術館を公開。
学歴
武蔵野美術大学(西洋画科)。佛教大学(佛教学科)卒業。
世界絵画の創造。
古今の西洋絵画と東洋絵画を研究し、
両方の綜合を目指す。
技法の研究と開発。
七つの技法。
一 油絵。薄描き。透明技法。
二 油絵。中厚描き。厚描き。重層技法。
三 水彩画。透明技法。不透明技法。
四 水彩絵の具等、水性のもので描いた上に、油彩したもの。混合技法。
五 鉛筆、墨、インク、油絵の具等多様な素材を用いて「線」で描く「黒と白」の絵の技法。
(黒と白の絵=広義のデッサンは、単なる下絵やスケッチでなく、それ自体独立した表現方法と形式の作品である。)
六 五の絵の線と黒白を生かし、その上に油絵の具、水彩絵の具等で彩色した絵の技法。
七 クレオン、クレパス、パステル、色鉛筆等で描く彩色画の技法。
以上の七種類の絵は、根本において同じく、自然の探究であり、相関している。
展覧会歴
1947~52年
中学時代、新潟県、京都市絵画コンクール特選2回。高校時代、京都絵画コンクール特選3回。全日本学生油絵コンクール入選。光風会全国展3回入選。学校長表彰。
1963年~
光風会展と日展に出品。芸術院会員等の幹部達に嘱望される。理事長や会長が東京から京都まで来て、才能と力を買われ、後継者になるように引かれるが就いて行かず、後退会する。以後今日まで一切の地位獲得運動と出世栄達を拒否して、独立自尊の精神を貫く。
1990年~
大地展、京都府ギャラリー、ギャラリー観、京都府文化博物館、ゴーキ美術研究所主催
1996年
ヴェルヴ展、阿佐ヶ谷洋画研究所の友、橋本博英、遠藤剛熈、中村清治、中山忠彦(生年月日順)の四人の会、ギャルリーEMORI(東京) 2回展から退会。
1999年
初個展、奈良そごう美術館 、奈良そごう美術館主催
「遠藤剛熈画集」文:粟津則雄、木村重信、島田康寛(五十音順)、東方出版
2000年
個展、遠藤剛熈美術館開館記念展
2002年
フランス国民美術家協会展、ルーブル美術館カルーゼル大ホール、日本単独代表招待出品。受賞、協会表彰。
2002年
個展、ギャラリーシマダ(神戸)
2002年
「画家遠藤剛熈」文:加藤周一/画:遠藤剛熈 共著、かもがわ出版
2003年
個展、東大阪市民美術センター、東大阪市主催
個展、三越(大阪)
2005年
個展、フランス、シャルトル市庁舎、シャルトル市姉妹都市友好協会主催、市表彰
2005年
個展、フランス、プレシス・トレヴィーズ゙市トウレル城美術館、プレシス・トレヴィーズ゙市主催、市表彰
2006年
個展、アートフォーラムJARFO(京都)
2007年
フランスサロン総合展招待出品 グランパレ(パリ)
2011年
個展、Gallery Ort Project (京都)
2011年
個展、遠藤剛熈美術館開館十周年記念展
画家が自分の十八歳から六十歳過までのことを語る。
私は十八歳から二十八歳までの十年近くを東京ですごした。その時代は人生如何に生きるべきか、理想と信仰を求めた真剣な歳月だった。
芸術家である前に人間であることが肝要だった。
ミケランジェロ、ベエトオベン、トルストイ、ミレー、ゴッホ、ブールデル、ロマン・ロラン等の人道的な芸術家や思想家達から大きな影響を受けた。
この時代から始まった「動」の方向の「生」の健康なモニュメンタルな芸術を私は生涯を通して制作しようと思っている。
中央線沿線で生活したので、当時まだ畑や林が残っていた西荻窪、吉祥寺、三鷹附近の武蔵野の風景と、花の静物と、学校の友人達の肖像を制作した。
同時に私は「死と永遠」を念願する知性的な「静」の芸術を求めていた。
古代インドから…日本の奈良や京都の佛像の数々。
西洋のダ・ヴィンチ、ゲーテ、モオツアルト、セザンヌ等の絵画や音楽や詩に心を引かれていた。
東京での生活と制作と思想では解決できない精神の苦悩をもっていた。普通の道徳より更に魂の深奥にある宗教的救済への渇望があった。善悪の彼岸にある絶対的なものを求めていた。
私は信仰をとりもどすために京都へ帰った。
私の故郷であり、少年の日から親しかった絵画的な世界があった。
京都の自然と街を画因にして制作して「自分自身の道」を歩み始めた。
私の京都の下鴨神社の糺の森や東山の南禅寺の風景画の大半は「逆光」の制作である。朝は東から出る太陽に向って、夕は西へ沈む夕陽の方向に立って。
(阿閦仏は東方浄土、阿弥陀仏は西方浄土に在すと仏典に説かれている。)
私の数々の作品は薄明時の制作である。その時刻に対象物の視覚像は明確に顕現する。陰の暗部から描き出して光りの明部へとすすめ明度と色彩の階調を得る。
他力と自力。前者は自然であり、真理であり、絶対であり、無限である。
後者は人間であり、相対であり、有限である。
私の絵画はあくまでも他力のための、自分という人間の努力=自力に他ならない。
私は油彩画の特質である重厚で硬質な物質感と、透朋で鋭敏な色彩感覚を、自分のものとすべく制作した。
色彩の本質を見つめ、色彩を実在として捉え、その上で光学理論を採り入れ、対比と調和の研究をすすめ、日本の永遠な自然を多彩で豊かな色彩で表現することは、私の生涯の制作の目的となっている。
しかし一方で、より深く自己と、自国の自然と、精神伝統の根本を知るために精進した結果、近代西洋絵画の色と形(デッサン)を同時にすすめるという折衷的な造形方法では、尊厳な自然の存在の真理探求が不充分なことがわかり、それを乗り越えて、より厳しく実在の客観的形態と根本的構造を追求した。
その基本となるものが線によるシンプルな黒と白のデッサンである。「黒」と「白」は最高最深の色である。
この決定に達するまでには、見えるがまま感ずるがままの自然の多色で豊かな色彩の感覚の実現の長い歳月の努力が必要である。
多彩な絵から黒と白になるのは、色が無くなるのではなく、黒と白の中に全ての色があるのである。
無から有を生ずるというか、死んで成るというか、とにかく懸命の制作の後に開け見えてくる深い自然であり、画境である。
ゴシックのカテドラルのステンドグラスの縁、モオツアルトの背景の暗さ、ルドンの暗い絵、ゴッホの初期の暗い絵、ルオーの絵、等の黒と、私の油彩画の逆光と黒は無縁ではない。
ゴッホは「一条の光さえあれば世界は暗黒でもよい」
ニーチェは「君達はいう、暗いと、しかしあえて君達のために、太陽の前に雲を置いてやったのだ。そのまわりが光り輝くのを見ないか」といっている。
セザンヌとルオーはともにボードレールの「悪の華」を座右に置いて熟読した。ルオーは「私は更に芸術家であるために悪をもって美をつくらねばならない」と言っている。(シュアレスへの手紙)
私はセザンヌとルオーの仕事から絵画の本道の、生涯の長い時間と忍耐を学んだ。
私の全ての作品の油彩、水彩、デッサン約1500枚は、現実の大地に立って、自然の対象に即して制作したものである。セザンヌ、ゴッホ直伝である。
私は雨の日も風の日も、風景の現場(野や丘や山)へ通い、一人黙々と制作した。人体と静物は屋外で描くわけにはいかず、アトリエで制作した。
私の三十歳前から六十歳過までの油絵は、京都東山の南禅寺の一処の風景に取り組み、一作に二年、三年〜二十年、三十年かけて描き加え、けずり、その上にデッサンをして形を引きしめ、自然を探求した。
制限の中の努力。人間から制限をとり除けば何もできない。
狭い門より入れ。滅びに至る門は広く、その道は広い。そしてそこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そしてそれを見出す者が少ない。
イエス(新約聖書、マタイ伝)
屋外の現実の大地に立って、時空を超え、生死を超えた、永遠の生命を表現するために、その表現方法を見出し、確立するために、煩悩熾盛の自分が試行錯誤し、五里霧中の、愚凡な努力、苦行をした。長い歳月、日の当たらない暗い谷間をさまよい、孤独に沈潜した。
ルオーは、絶海の孤島にいても絵を描くか、という質問に、恐らく描くだろう、と答えている。彼が尊敬し切っていたセザンヌがそうであった。
ゴッホはある人への手紙で、君が孤独で、愛する人がいない時でも、故郷の街と自然を愛したまえ、と書いている。
私は純粋な故郷の京都の街と自然の中に、画因があり、絵画があったことで、画家になり今日まで制作してきた。古より生まれかわり死にかわり、人間がつくって来た精神伝統、歴史の恩恵である。
若い時から現在まで、私を導いて来たものは、芸術と宗教の真人、神人、大天才との真実な痛切な邂逅である。永遠より死を超え暗黒を超え人間に来たる、絶対の他力、佛力、霊力、大悲力と、絶対孤独な自分一人の出会いである。片鱗に触れた者の謝念である。人並以上と思える大天才への強い信と愛である。
1964年9月(29才)南禅寺にて、毎日新聞記者による。
1972年3月(37才)南禅寺、鐘楼の丘より
1972年3月(37才)南禅寺、鐘楼の丘より
1999年頃(64才頃)植物園にて
1999年1月22日(64才頃)嵯峨野 大覚寺にて
2008年11月(73才)八瀬にて