京都・猪熊通り高辻の京町家街にひときわ聳え立ち、目を引くギリシャ神殿風の大きなコンクリート建造物がある。二〇〇〇年の秋「永遠なるもの(自然・宇宙・神仏)と人類が出合うことができる寺院のようであり……捧げものが(油彩)作品であるような空間」を意図して、自らデザインし開設された私設の「遠藤剛熈美術館」である。
十代で公募展連続入選を果たし「天才少年の大成を期待する!」と地元新聞が大きく取り上げた美術少年が成人し、やがて三十路を前に武蔵野美術大学時代を含む十年間の東京生活に終止符を打ち帰京。両親が用意してくれたアトリエで「ゴーキ美術研究所」を開所した。最盛期には二百名を超える画塾生を擁し、今日までに一万名を超す卒塾生を送り出し、関西No.1の地位に育てた経歴を有する所長・作家であり館長を兼務している人物が遠藤剛熈である。
十代半ばに日本美術界の重鎮といわれた安井曾太郎、須田国太郎に面会して自作への批評を求め、二十代に小林秀雄や武者小路実篤からその後の人生の歩みへの助言を受けた。「早熟」「怖いもの知らず」ともいえる、超大物ばかりとの面会である。この出会いから学んだ愛・真・善・美の理想は、独立不羈の人生観や芸術・科学・宗教的真理は一つであるとする遠藤芸術論を創り上げるうえで大きな影響を与えた。これに加えて戦後流行した「実存主義」「人道・博愛主義」の影響が、「実存と本質」言いかえると「神と人類」を、彼の芸術と人生の根本的命題にさせていったといえる。
セザンヌに私淑する遠藤にとって、人間や魂の価値創造に向けた制作モチベーションを高揚させるものは、屋外自然の現場に立つことにより受けることができる、大自然や山川草木に宿る生命からの啓示と感動である。
感動したもの以外は描かないと明言する彼のライフワークは、「樹木」と「日本の女」である。煩悩そのものの中に仏が在り、煩悩を否定はしないと語る彼にとって、日本の女の立ち姿と樹木に宿る「漲る命」の表現こそは、自らの葛藤を重ね合わせる求道者にとり不可避のテーマなのだろう。デッサン作品にみられるより深く対象物に食い入る筆圧の強い太い線や細い無数の線は、あたかも人体・樹脈の毛細血管や動脈や葉脈を顕示しているようであり、三十代で僧籍を取得した遠藤にとって、樹木も人体も「自然との共生き」に感動する自身を表しているようにみえる。
「知の巨匠」と言われた文明評論家・加藤周一が三度も来館し、「感動した・油絵もデッサンも良い仕事だ。命をかけている。まれなことだ」と絶賛したのもうなずける。本人の才はいうまでもなく、裕福な家庭環境と良き人との出会いに恵まれたことによるところが大きい生き様と作品といえる。