画家が自分の十八歳から六十歳過までのことを語る。
画家が自分の十八歳から六十歳過までのことを語る。
私は十八歳から二十八歳までの十年近くを東京ですごした。その時代は人生如何に生きるべきか、理想と信仰を求めた真剣な歳月だった。
芸術家である前に人間であることが肝要だった。
ミケランジェロ、ベエトオベン、トルストイ、ミレー、ゴッホ、ブールデル、ロマン・ロラン等の人道的な芸術家や思想家達から大きな影響を受けた。
この時代から始まった「動」の方向の「生」の健康なモニュメンタルな芸術を私は生涯を通して制作しようと思っている。
中央線沿線で生活したので、当時まだ畑や林が残っていた西荻窪、吉祥寺、三鷹附近の武蔵野の風景と、花の静物と、学校の友人達の肖像を制作した。
同時に私は「死と永遠」を念願する知性的な「静」の芸術を求めていた。
古代インドから…日本の奈良や京都の佛像の数々。
西洋のダ・ヴィンチ、ゲーテ、モオツアルト、セザンヌ等の絵画や音楽や詩に心を引かれていた。
東京での生活と制作と思想では解決できない精神の苦悩をもっていた。普通の道徳より更に魂の深奥にある宗教的救済への渇望があった。善悪の彼岸にある絶対的なものを求めていた。
私は信仰をとりもどすために京都へ帰った。
私の故郷であり、少年の日から親しかった絵画的な世界があった。
京都の自然と街を画因にして制作して「自分自身の道」を歩み始めた。
私の京都の下鴨神社の糺の森や東山の南禅寺の風景画の大半は「逆光」の制作である。朝は東から出る太陽に向って、夕は西へ沈む夕陽の方向に立って。
(阿閦仏は東方浄土、阿弥陀仏は西方浄土に在すと仏典に説かれている。)
私の数々の作品は薄明時の制作である。その時刻に対象物の視覚像は明確に顕現する。陰の暗部から描き出して光りの明部へとすすめ明度と色彩の階調を得る。
他力と自力。前者は自然であり、真理であり、絶対であり、無限である。
後者は人間であり、相対であり、有限である。
私の絵画はあくまでも他力のための、自分という人間の努力=自力に他ならない。
私は油彩画の特質である重厚で硬質な物質感と、透朋で鋭敏な色彩感覚を、自分のものとすべく制作した。
色彩の本質を見つめ、色彩を実在として捉え、その上で光学理論を採り入れ、対比と調和の研究をすすめ、日本の永遠な自然を多彩で豊かな色彩で表現することは、私の生涯の制作の目的となっている。
しかし一方で、より深く自己と、自国の自然と、精神伝統の根本を知るために精進した結果、近代西洋絵画の色と形(デッサン)を同時にすすめるという折衷的な造形方法では、尊厳な自然の存在の真理探求が不充分なことがわかり、それを乗り越えて、より厳しく実在の客観的形態と根本的構造を追求した。
その基本となるものが線によるシンプルな黒と白のデッサンである。「黒」と「白」は最高最深の色である。
この決定に達するまでには、見えるがまま感ずるがままの自然の多色で豊かな色彩の感覚の実現の長い歳月の努力が必要である。
多彩な絵から黒と白になるのは、色が無くなるのではなく、黒と白の中に全ての色があるのである。
無から有を生ずるというか、死んで成るというか、とにかく懸命の制作の後に開け見えてくる深い自然であり、画境である。
ゴシックのカテドラルのステンドグラスの縁、モオツアルトの背景の暗さ、ルドンの暗い絵、ゴッホの初期の暗い絵、ルオーの絵、等の黒と、私の油彩画の逆光と黒は無縁ではない。
ゴッホは「一条の光さえあれば世界は暗黒でもよい」
ニーチェは「君達はいう、暗いと、しかしあえて君達のために、太陽の前に雲を置いてやったのだ。そのまわりが光り輝くのを見ないか」といっている。
セザンヌとルオーはともにボードレールの「悪の華」を座右に置いて熟読した。ルオーは「私は更に芸術家であるために悪をもって美をつくらねばならない」と言っている。(シュアレスへの手紙)
私はセザンヌとルオーの仕事から絵画の本道の、生涯の長い時間と忍耐を学んだ。
私の全ての作品の油彩、水彩、デッサン約1500枚は、現実の大地に立って、自然の対象に即して制作したものである。セザンヌ、ゴッホ直伝である。
私は雨の日も風の日も、風景の現場(野や丘や山)へ通い、一人黙々と制作した。人体と静物は屋外で描くわけにはいかず、アトリエで制作した。
私の三十歳前から六十歳過までの油絵は、京都東山の南禅寺の一処の風景に取り組み、一作に二年、三年〜二十年、三十年かけて描き加え、けずり、その上にデッサンをして形を引きしめ、自然を探求した。
制限の中の努力。人間から制限をとり除けば何もできない。
狭い門より入れ。滅びに至る門は広く、その道は広い。そしてそこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そしてそれを見出す者が少ない。
イエス(新約聖書、マタイ伝)
屋外の現実の大地に立って、時空を超え、生死を超えた、永遠の生命を表現するために、その表現方法を見出し、確立するために、煩悩熾盛の自分が試行錯誤し、五里霧中の、愚凡な努力、苦行をした。長い歳月、日の当たらない暗い谷間をさまよい、孤独に沈潜した。
ルオーは、絶海の孤島にいても絵を描くか、という質問に、恐らく描くだろう、と答えている。彼が尊敬し切っていたセザンヌがそうであった。
ゴッホはある人への手紙で、君が孤独で、愛する人がいない時でも、故郷の街と自然を愛したまえ、と書いている。
私は純粋な故郷の京都の街と自然の中に、画因があり、絵画があったことで、画家になり今日まで制作してきた。古より生まれかわり死にかわり、人間がつくって来た精神伝統、歴史の恩恵である。
若い時から現在まで、私を導いて来たものは、芸術と宗教の真人、神人、大天才との真実な痛切な邂逅である。永遠より死を超え暗黒を超え人間に来たる、絶対の他力、佛力、霊力、大悲力と、絶対孤独な自分一人の出会いである。片鱗に触れた者の謝念である。人並以上と思える大天才への強い信と愛である。