実存は本質に先行する。
実存は本質に先行する。
宗教的芸術的真実・霊的内在的超越的実存は、普通一般道徳や物質的現実に先行する。
古代から近、現代まで続く、インド的実存(佛教、ジャイナ教、ヒンドゥー教)と、ヘヴライ的実存(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の二つの潮流の融合。
1998年7月
…一九五〇年代初頭の戦後の京都の新制高校生だった私にとって、「実存は本質に先行する」という実存主義の思想は、深く重くかつ新鮮なものと思われた。
実存と本質。すなわち神と人類。宗教的芸術的真実と道徳的社会的現実。芸術家と人間。これらの関係は、今日の時代の現実の中に生きている自分にとって重要な問題でありつづけている。
自分が天性芸術家であり、宗教的芸術的真実の探求者であり、この分野の生涯の研究によって、芸術の歴史と伝統の環に新たに一つの独創的な仕事を加えることが、延いては人類に貢献することになるのである。このことのみが実際的で実現可能なことであり、自己と他者に責任を取ることである。
このように、様々な試行錯誤と葛藤の六十年の長い歳月を費やすことになったのである。
少年時代に戦没者とその遺族の不幸に心を痛めたものの、学童の強制疎開があって戦火を直接体験していない世代の私である。
私より数歳年長で、第二次大戦が終わった時に二十歳にもなっていなかった画家ベルナール・ビュッフェの作品は、戦争の殺戮と破壊による人間不信の虚無の中から、人間存在のギリギリのところから立ち上がろうとした時代のリアルな証言であると思う。
第一次大戦の時代にルオーはミゼレーレを描き、ピカソはゲルニカを描いて反戦を表明したが、私が彼等の作品を知った頃には、彼等はすでに晩年を迎えていた。ジャコメッティはまだ壮年だったように思う。
二十世紀の美術の造形と感覚美の数々の巨匠の中でも、特にルオーとピカソとジャコメッティは、人間を前にして仕事をしたことにおいて、日本の青年の私の心を打つ芸術家であった。
中略
ニーチェは「神は死んだ」といった。より正確に言えば「形骸化した権威の、生命がない教会の神は死んだ」である。しかしニーチェはキリストを否定してはいない。私は十字架の人に対決するディオニゾスである。と最後の著作である「この人を見よ」の中で言っている。
カント、シラー、ベエトオヴェン、バルザック、ユーゴー、トルストイ、ドラクロア、クールベ、ミレー、バリー、ロダン、ゴッホ等に続いた、ブールデル、ロラン、ヘッセ、シュヴァイツアー、ピカソ、ルオー、スーチン、サルトル、ジャコメッティ、ビュフェ等の二十世紀前半から後半にかけての思想家や芸術家達は、あらゆる固定観念と教条主義。既成の集団組織の狭量と独善。国家等集団と個人の暴力と権力。物と金銭の不正と虚偽。これらに一歩も妥協せず容認せず、多勢派に抗して少数派の同志達と共に、人間各個人の独立した人格の尊厳と、自由と平等と人類愛のために、叡智と創造力をもって戦った。
中略
実存の孤独と不安と畏怖はすでに古代エジプトの彫像に見られるが、インド的実存(バラモン教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教)とヘヴライ的実存(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の潮流が、近、現代の実存にまで続いている。
近代のゲーテ、モーツァルト、ショーペンハウエル、キルケゴール、ドストエフスキー、ワーグナー、ニーチェ、ルドン、セザンヌ、ゴッホ、ルオー、ベルグソン、リルケ、ヘッセ、ロラン、バルト、ヤスパース、マルセル等の西洋の思想家や芸術家の仕事に見られるヘヴライ的実存とインド的実存の交流が、今日まで受け継がれている。
釈迦は中部東洋、イエスは西部東洋(中洋)の生まれであるから、そこから仏教思想とキリスト教思想は他所へ広がったのである。
実存的な出会いは突然人間にやってくるもので、それは運命的なものであり、信仰を決定づける力を持つ。時空を越えた力であり生命である。神人、真人との邂逅で、人間は無明から開眼し、覚醒し、新生する。
芸術家には、この純粋無雑で強烈な、霊的内在的超越的実存者との対決が不可避となる。
自らを神の子とするイエスは、地上に平和をもたらすためではなく、剣を投げ入れるために来た。と言う。
仏陀とキリストは共に世の人々に、霊的内在的超越的実存者である仏・神か、それを欠いた人間かの選択を迫る。…
インドのマハートマー(大聖)、ガンディーは言う。
キリスト教は善いが、キリスト教徒は悪い。
何もキリスト教徒に限ったことではない。
神・佛の前へは一人で立つのであって、宗教宗派の徒党を組んでではない。
神・佛は群集とともに来る者を拒否する。
自己を灯火とし、自らを依所とせよ。他者を依所としてはならない。大自然の法(真実)を灯火とし、法(真実)を依所とせよ。
という佛陀の言葉は、自己の発見と確立と尊厳に関する不動の教訓である。