全てを捨てて出家して修道せよ。
釈迦
全てを捨てて我に従へ。
イエス
この二人の宗教と道徳の偉人の教えは、真実の芸術家たらんとする者に
とっての不滅の金言である。
妻子も、父母も、財宝も、穀物も、親族やそのほかあらゆる欲望までも、
すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。
釈迦(スッタニパータ)
私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、父母、子供、田畑を捨
てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが…後の世では永遠の命を
受ける。
イエス(聖書)
学道の人は最も貧なるべし、人は必ず陰徳を修すべし。
道元
釈迦の「三衣一鉢」の生活の中にこそ、真実の道があるのではないか。
自分が安楽な生活をしていて、貧困や病の孤独の中に苦しんでいる、世の衆生済度などできるはずがない。
同じことをイエスは次のように言っている。
金持ちが天の国に入るのは難しい。
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。
だれも、二人の主人に仕えることはできない。
一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
聖書
画家にとって絵画は自分の命よりも大切である。神・佛のために命を惜しまず刻苦勉励する孤独な無償の仕事である。絵画は生涯の日々の刻々を、自分を捨て、無我になり、最初の一筆から始める行為である。芸術家と宗教者に明日という時はない。
神・佛の前へは一人で。神・佛は群衆と共に来る者を拒否する。
死んでから神・佛に出会うより、この世で神・佛に出会いたい。死後のことが気になるのは、今現在において神・佛を愛し、隣人・衆生を愛する、自己否定の誠実と献身の行いが出来ていないからである。天国・浄土は遠い彼方に在るものではない。地獄も同じである。死んでから行く処ではない。死ぬ時に人間として勝利者か敗北者かどちらかが決まるのは、取りかえしの出来ない生前の行いのみである。
私の弟子になりたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、永遠の命を得る。
イエス(聖書)
このことは、沈黙せよ。先ず神の国とその義を求めよ。神の国は現存的に今此処にある。汝の心の中にある。思い煩う現世的な自己を否定し、神の生命即ち宇宙の霊的な永遠の生命を求めよ。自分を愛するように汝の隣人を愛せよ。というイエスの教えの実践と同様である。
芸術家の私にとって、釈迦とイエスは人類最高の芸術家であり、真の創造者である。
釈迦は筆や鑿やペンを用いなくても、永遠の生命力をもって、生身の肉体で働き、不滅の精神(霊)がある、生きた人間達を創造した。
このことはイエスにおいても同じことが言える。
ゴッホは手紙の中で、次のように書いている。
…キリスト一人、永遠の生命と、永遠の時と、不死こそ確実である、と断言し、平安と献身との必要と、その存在理由を確信した。彼は清らかな活きた、芸術家中の最大の芸術家として、生きた身体で働いた。
この未聞の、殆ど考え難い芸術家は、絵も描かなかった。彫像も作らなかった。本も書かなかった。彼は生きた人間達を作った。不死の人間達を作った。…
神経の組織が大変弱っている。
絵を描くことで、どうにか自分を支えている。
絵を描きながら死ぬ、と私は固く自分の心に誓った。
セザンヌ(最晩年の言葉)
私は仕事に命を賭けている。そして既に私の理性は、その中で半ば崩潰した。それはそれでよいのだ。
だが、君は、そこいらにいる商人どもの仲間ではない。君はまだ人間らしく行動する方を選ぶ事が出来る、と私は思う。そうではないか。
ゴッホ(弟テオへの最後の手紙)
釈迦、ソクラテス、イエスも、法然、親鸞、日蓮も、バッハ、モオツアルト、ベエトオベンも、レンブラント、セザンヌ、ゴッホ…も、私的に家にとどまらず、無所有で、生涯大自然の中で仕事をした。そうして大地を最後まで歩みつづけ、釈迦は病んで野辺に、ソクラテスは獄中に、イエスは丘上の十字架に、法然、親鸞、日蓮はあばら家で亡くなった。
レンブラントは貧困と孤独の中に死に、セザンヌとゴッホはともに、絵を描きながら倒れ、無名で果てた。バッハは没後作品は二束三文で売り飛ばされ、モオツアルトは共同墓地に葬られ、ベエトオベンは旅人に眼をとじてもらった。
人類の高邁な宗教家、哲学者、芸術家達は皆、大自然の真理・真実=法・神の探究と、全世界への愛・慈悲のためにのみ生きて死んだ。
死ね!そして成れ!これが本当の芸術家たる者の決意である。芸術家の肉体は死んでも、作品に込められた魂は、後世の人類の魂の中に復活し生きつづける。