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油絵の色彩の美の追究。           制限の中の努力。美は外面にはない。内面にある。

 ファン・アイク、デューラー、チチアーノ、チントレット、ラファエロ、エル・グレコ、リューベンス、ヴェラスケスらはもとより、近・現代のコロー、ドラクロア、クールベ、セザンヌ、ルノワール、マチス、ルオー、ピカソ、モジリアーニらの油絵は透明である。薄塗りの絵においても、厚塗りの絵においても透明である。
 これは透明性の絵具を用いた技法上の問題だけではない。対象物に即して実在感の表現の執拗な追求を行っているうちに、画家自身の感覚が純化してくるのである。対象物に照応する画家の自我内部から出る色彩感覚が透明なのである。
 このことが日本人の油絵に欠けているものである。多くの日本人の油絵は、年と共に若い時の情熱と執着が薄れていく。叙情的になり、淡泊な人柄が作品に表れるようになる。油絵特有の硬質性、粘着性、透明性が薄れ、失われていく。
 油絵具の下塗り。堅牢で不透明なシルバーホワイトの絵具の上に、何層にも有彩色を塗り重ねていく。光と陰。陰は油絵具を用いてこそ透明になる。光も陰も全てが色である。色は生命である。光は暗の中から輝くから光る。逆光の美。ステンドグラスの光。佛光(後光)。
 油絵は、油という濃厚なもの、即ち人間の現世の事物へのあくなき執着と情熱と、純粋・透明なものへの超越と解脱という、相反し矛盾するものの両方を追求する欲望であり願望である。
 私は毎年毎度の展覧会に間に合わせるような制作はやらない。二年、三年 あるものは二十年、三十年かけて、同じ風景を描きつづけている。厚く盛り上がった絵具の上に、更にデッサンをして形を引き締める。どこまでも描き加えていく。魂と感覚がどこまで深まるか。純化するか。一生涯労働して、絵画の形・色彩・調和を学ぶ。
 制限の中で努力する。美は外面にはない。内面にある。神・佛は外にはない。心の中にある。
 客観世界を見ることは同時に自分の内面世界を見ることだ。
 主観的でなければ客観的にならないのである。

1999  

 
 
 

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