自然科学は人間の外部の客観的自然(宇宙)の探究であり、人文科学は人間の外部の客観的自然と、人間の内部の主観的自然の一体性の探究である。
共に自然の物質と生命(精神を含む)、存在と現象の探究である。
自然科学の研究には基礎物理学、基礎化学、基礎生物学等の理論と実験の基礎が必要であるように、人文科学の造形芸術には基礎造形の実践と理論の基礎が必要である。その基礎をデッサンと言う。
西洋においては、ルネッサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、チントレットからホルバイン、デューラー、レンブラントをへてゴッホ、ピカソ、ジャコメッティにいたるまで。東洋においては宋元時代の王維、董源、李成から范寛、郭熙、許導寧。室町時代の雪舟、雪村から等伯、光琳をへて若冲、北斎にいたるまで、デッサンの探究が根本になっている。
自然科学がつくり出す「技術」は時代と共に進歩するが、人文科学の「芸術」は進歩せず変化するだけである。時代によって頂上があり、谷がある。
西洋においては、古代ギリシャ彫刻、イタリアと北方ルネッサンス絵画、彫刻、十八、九世紀のドイツ音楽、十八、十九世紀フランス絵画、彫刻。東洋においては、インドガンダーラ、マトウラの彫刻。中国北魏から唐の彫刻、奈良から鎌倉の彫刻、中国宋元から日本室町の絵画、… 等は頂上である。
現代の美術、芸術は自然の真理を探究するという目的と、その探究の基礎である本格のデッサンをすっかり喪失している。そうして低迷し退歩していて谷である。
人類は古代から自然科学と人文科学両方の分野で、自然宇宙の真理を探究し、偉大な業績を後世に伝えて来た。
古代エジプトのピラミッドやスフィンクスを造った人達(宗教者、芸術家、建築家、技術者等)。古代ギリシャのピタゴラス、エウクレイデス、アルキメデス等の科学者達。アテネのパルテノン神殿を建てた人達(宗教者、芸術家、
建築家、技術者等)。古典期のフィディアスやプラクシテレス等の彫刻家達。中世期のシャルトル大聖堂を造った人達(宗教者、芸術家、建築家、技術者等)。ルネッサンス期のイタリアの画家、彫刻家、建築家、科学者であったレオナルドとミケランジェロ等。近世のコペルニクスからガリレオ・ガリレイをへて、近、現代のニュートンからアインシュタインに至る自然科学者達。植物と動物の自然科学者であり詩人であったゲーテ。哲学者でパイプオルガンの演奏者で制作者であり、医学者であったシュヴァイツアー。医学者であり、文学者であった加藤周一。
古代から近世をへて近代に至るまで、自然科学と人文科学の両方が調和した文明、文化を創造する目的と理想をもって、自然科学者と人文科学者(宗教、哲学、文学、美術、音楽等の専門家)は、自然宇宙の真理を探究して来た。
現代は自然科学と人文科学、科学と芸術と宗教がバラバラである。
現代は科学と芸術と宗教が調和していない。科学技術の物質偏重の文明のために、精神文化の混迷と頽廃の時代である。
科学と芸術と宗教が調和した文化の基礎からの創造の復興に向って、自然科学と人文科学の総合的研究が必要である。
大自然との調和と、萬物の生命との共生が、科学と芸術と宗教の共通の目的であり理想であるべきである。
人類の大悪の核戦争、そうして原発事故などの環境破壊の脅威にさらされ、魂の尊厳がないさもしい物質文明に毒されて、人間社会の道徳心の荒廃が益々すすむ今日である。
科学の技術がつくり出す物には心がない。
使い方を間違うと破壊と殺戮になる。
芸術の創造の作品には心があり、心そのものである。
芸術心と宗教心は同じものである。
芸術は愛、慈悲であり、宗教は愛、慈悲である。
科学は愛、慈悲のため、平和のために用いられねばならない。