開会式スピーチ 粟津則雄
粟津則雄 氏
いわき市立草野心平記念文学館館長、文学者、批評家
遠藤剛熈美術館開館記念
開会式 スピーチ
粟津則雄
遠藤さんに初めてお目にかかったのはもう何年前ですかね。ある時突然お電話がありまして、「絵を見てほしい」と仰る。わりにたびたびそういうお手紙だとかお電話だとか、いろいろな人からもらうんだけれども、実は原則的に私は「勘弁してほしい」と、申し上げておりました。つまり、一人にお会いするとすべてお会いしないと不公平になります。勘弁していただきたいと、で、その時もそう言おうと思ったんです。ところが皆さんもよくご存じのあの遠藤剛熈流の、追いつめたような、脅かすような、あの声で「どうしてもわたくしは粟津さんに見てもらいたいと思う」と仰る。断るに断れなくなりまして、「じゃあどうぞ」と申し上げたんです。
ところが、ほんの数日後にまたお電話がありまして、「遠藤です」と。「ああどうも」と言ったらば「実はもう東京駅にいる」と仰る。「今から伺いたい」。それでしばらく待っておりますとおいでになりまして、大きなその包みにデッサンと、かなりの数のデッサンと、それから自分のお描きになったこれまでの絵の写真、また小さなカラーのものもありましたけれども、どっさりお持ちになって、私はそれまで遠藤さんの作品はもちろん、お名前もまったく存じ上げなかったんだけれども、さっきご挨拶のあの顔つきでですね、入ってらっしゃる。居間にお通しして絵を拝見したらば、大変驚きました。何に驚いたかと申すと、とにかくものを、絵描きがものを描くという、つまり対象と絵描きの目や手との関わりという、その実に直截な出会いというところに一切が集中しているわけですね。最近はやりの様々な手法、様々な芸術思潮、様々な観念、それはもちろん遠藤さんにもあるんでしょうけども、そういったものの中に、つまりもうまるで本能のように、画家が目を開き手を動かしてものに触れあいものを描き、ものと合体する。その全身的な、全身全霊を込めた遠藤さんの仕事の質、絵の質、精神の質というものが、デッサンからその他の作品に至るまで充満しておりまして、これはただ者ではない、と思いました。
先程木村さんが兼好の言葉をお引きになったけれども、わたくしも感じたのは決してこの方は器用な方じゃないです、むしろ不器用に近い。不器用に近いんだけれども、その不器用さというものが、絵に対する、自然に対する、あるいは人間に対する様々な、いわば出来心といいますかね、既に出来た、出来上がった観念を壊して 刻々に壊していく。それから、ごく小さなデッサンから圧倒するような大作にいたるまであふれかえっておりまして、びっくり仰天したわけです。私も一度まだこういう見事な美術館が出来る前のお宅に伺って絵を拝見したことがあったり、この間は奈良で大きな展覧会がありまして、私もその時の画集に文章を書かしていただいたんで伺ったんですけれども。
こういう仕事は一つ間違いますと、いささかでも何といいますか念力、 精神の力が衰えますと、実に無惨な繰り返しになります、自己模倣と 。ところがこの怪奇な画家は、この歳になって未だに一種の初心ていいますかね、自然との実に初々しい出会いというものを抱き続け、成長させ続けていらっしゃる。その遠藤さんのお仕事が、こういう見事な、これは遠藤さんの執念だと思うけれども、見事な場を与えられて、多くの方々がご覧になれるようなそういう場を与えられて、さらに多くの方々の目に、よろこびを、さっき仰った言葉によれば、平和と愛を与える、これは非常に私としてもうれしいことだと思っております。どうぞ遠藤さん、体を大事にして、しっかりやって下さい。どうも。
(2000年11月23日 遠藤剛熈美術館にて収録)