© 2012 Gohki Endo All rights reserved.

若き日の出会い:武者小路実篤

…武者小路さんは私に、
「岸田劉生もセザンヌだけが絵ではないといって苦しんでいた」…
「さんざん悪口を言われた連中が皆ものになった」と言われた。

…私のデッサンを見て「よいではないですか」としみじみとした声で言われた。それから「色が見たい」と言われた。

…「色が見たい」という武者小路さんの言葉にこたえることが出来なかった。しかし、私の青年時代に武者小路実篤翁からうけとった氏の人格は、今も私の精神と絵の中に、真面目な人間性から出た深い実在感のある色彩となって生きつづけているのである。

 

武者小路実篤さんの文学は高校時代から読んでいた。健康で善意のある真面目な青春の文学であった。「友情」「愛と死」「真理先生」「馬鹿一」「レンブラント」「芸に生きる人々」 などを読んでいた。

武者小路さんは白樺派の生き残りの一人だった。高村光太郎はすでに故人となっていた。志賀直哉、寺田寅彦、中勘助などを愛読していたので、会いたいと思っていたが果たせずにいた。

志賀直哉の文章の清潔さを尊敬していた。志賀直哉と佐藤春夫との「ピカソ展」についての対談を新聞で読んだ。志賀さんはセザンヌを尊敬し、画家の鏡であり、後世の人間の心をうつものだと語っていた。ピカソの絵のあるものは長く後世まで残るかどうか疑問だといっていた。

寺田寅彦の「どんぐり」、中勘助の「銀の匙」のような純粋で繊細な文章が、今の時代にあるだろうか。

小林秀雄さんに絵を見せた頃、私は武者小路実篤さんの住所をしらべて電話をして会いに行った。

武者小路さんは戦後三鷹市の牟礼に住んでおられた。私の下宿のアトリエも牟礼だった。牟礼は武者小路さんの後輩の友人の高田博厚や真垣武勝が、若い頃にヤギの乳をしぼったりして自給自足の共同生活をしていたところだったという。

私は真垣武勝さんの家の向かいに下宿していたので、真垣さんとは絵を見せたり見にいったりしていた。

武者小路さんは仙川というところが水がよいというので、牟礼から住居を移されて間もない頃だった。広い庭は未だ出来上がっていないようだった。

初めて武者小路さんに会った時、武者小路さんは背の高い骨格のしっかりした人で、顔はしわとシミがあった。

玄関のドアをあけて中へ入ったところは板間になっていて、よく見えるところに、岸田劉生が描いた、十号ぐらいの首から上の横顔の「若き日の武者小路実篤」の油絵がかけてあった。

「自分の友人の多くが死んでしまって淋しい」と武者小路さんは私にいわれた。

応接間と思われる部屋に通された。

私は持ってきた武蔵野の畑や樹木や肖像や人体などのデッサンの束を見せた。

武者小路さんは一枚一枚じっと見ておられた。感心したようなウーンとかアーとかいう低い声を出して見ておられた。

ときどき、「これは何を描いているのですか」とか質問された。
全部見終わってからおもむろに、「よいではないですか」としみじみとした声でいわれた。

しばらくして、「色が見たい」といわれた。
「何歳ですか」とたずねられた。「二十七です」と答えたと思う。

それから巨匠達の話になった。その頃日本に来た「フランス名画展」の話になった。ミレーの「春」の風景には私は感心したが、武者小路さんも同じだったようだ。「あの絵のようにしっかり描き込んだ仕事をしなければならない」といわれた。

私は「クールベが一番絵の具がしっかりついていて堅牢です。」といったら、武者小路さんは合点してクールベの画集を持ってきてくださったので二人で見た。

武者小路さんはピカソからもらったという大きなエッチングを私に見せた。
エル・グレコやレンブラントのことを話し合った。

それから私はセザンヌのことを話した。セザンヌは私にとって大きな存在であることを。

武者小路さんは、「岸田劉生もセザンヌだけが絵ではないといって苦しんでいた」といわれた。
私は草土舎の画家達や白樺派の文学者達のことを尋ねた。
武者小路さんは、岸田劉生や高村光太郎などの友人達のことを、「さんざん悪口をいわれた連中が皆ものになった」と私にいわれた。

丁度、高田博厚さんから小包がとどいた。「高田さんにはずい分お世話になった」としみじみいわれた。
武者小路さんの家には三十歳ぐらいの男の人が二人ほどいた。書生か手伝いの人だったと思う。夫人と思われる小柄で上品な人が果物を一杯もってきてくださった。
それから何を話し合ったか今はわすれてしまった。

大分時間がたったので私の方からいとま乞いをして武者小路さんの家をでた。
後ろの方から武者小路さんの声がとどいた。「とらわれずにやるのだね」。
ふり返ると武者小路さんがじっと私を見て立っておられた。私は一礼をして氏の前から立ち去った。

それから間もなく私は東京での生活を終え、荷物(主にキャンバスと本)をまとめて京都に帰ってきた(運賃が足りずに絵画作品の何枚かと愛用した品々を下宿へ置いてきた)

これは三十年前のことである。
「とらわれずにやるのだね」という武者小路さんの言葉は「妥協してやるのだね」ではなかった。若い頃はそうもとれたが。

「善きにつけ、悪しきにつけ、他人に左右されず、自分の孤独な道を往くことだね」「無碍の道をゆくことだね」という意味だったと思っている。

「色が見たい」という武者小路さんの言葉にこたえることが出来なかった。しかし、私の青年時代に私が武者小路実篤翁からうけとった氏の人格は、今も私の精神と絵の中に、真面目な人間性から出た深い実在感のある色彩となって生きつづけているのである。

                    1992年春

武者小路実篤

 

武者小路 実篤

武者小路実篤(むしゃこうじ さねあつ/1885~1976年)は、明治43年に友人・志賀直哉らと雑誌『白樺』を創刊し、以後、60年余にわたって文学活動を続けてきました。小説「おめでたき人」「友情」「愛と死」「真理先生」、戯曲「その妹」「ある青年の夢」などの代表作、また多くの人生論を著したことで知られ、一貫して人生の賛美、人間愛を語り続けました。

大正7年には「新しき村」を創設し、理想社会の実現に向けて、実践活動にも取り組みました。 また、『白樺』では美術館建設を計画し、昭和11年の欧米旅行では各地の美術館を訪ねるなど、美術にも関心が深く、多く評論を著しています。自らも40歳頃から絵筆をとり、人々に親しまれている独特の画風で、多くの作品を描きました。

実篤はその生涯を通じて、文学はもとより、美術、演劇、思想と幅広い分野で活動し、語り尽くせぬ業績を残したのです。

(武者小路実篤記念館 「実篤の生涯」より)

小説家、詩人、劇作家。
位階は従三位。文化勲章受章。授与された称号には名誉都民などがある。日本芸術院会員。

1906年に東京帝国大学社会学科に入学。1907年東大を中退。1910年には志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。これに因んで白樺派と呼ばれる。トルストイに傾倒した。また、白樺派の思想的な支柱であった。

武者小路実篤の詳細はウィキペディア等をご参照ください。